何のために国語を勉強するの?
私たちは学校で勉強をしたから日本語を話せるようになったわけではありません。
にも関わらず、小学校から高校まで国語を学びます。
一体何のために国語を学習するのでしょうか?
文部科学省の指導要領を引用すると、国語を勉強することで身につけたい能力は「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」とされています。
「知識及び技能」は言葉の特徴や使い方に関する事項、情報の扱い方に関する事項、我が国の言語文化に関する事項、「思考力、判断力、表現力等」は話すこと、聞くこと、書くこと、読むことで構成されています。
私は国語という教科を「日本人を知る教科」と言いかえて解釈しています。
私たち日本人が母国語である日本語をどのように使っているのかはもちろん、日本人がどのようにものごとを考えるかを知ることができます。
例えば、春に桜の花が咲いたときを想像してみてください。
日本人は桜の花をみたとき、「美しさ」だけでなく「寂しさ」や「悲しさ」、「不安」なども同時に感じることが多いです。
これは、「桜の花」が「卒業式」「入学式」「新年度」など「別れ」や「新しい生活の始まり」などを連想させるからです。
しかし、これは世界共通のことではありません。
桜の花が咲かない国や、桜が咲く季節に卒業式や入学式がない国のひとが日本へ来て桜の花をみてもおそらく「寂しさ」や「不安」などを感じることは少ないでしょう。
桜の花をみて複雑な気持ちになるのが「日本人」なのです。
その背景を知らずに桜の花の描写がある小説を読んでも、この独特のニュアンスは伝わりません。
同じように、古典も過去の日本人の考え方を通じて、現在の日本人を知ることができます。
例えば、古文で「声」や「和歌のうまさ」から「なんて魅力的な男性なんでしょう!」と感動する場面は、「相手の顔が見えない状態で恋愛をする」という当時の背景があって初めて成立します。現代の私たちには共感しづらいですね。
一方で「あの人もこの月をみているのだろうか?」という和歌を詠む場面では、「月をみて大切なひとのことを考える」というのは現代の私たちの感覚でも理解できます
つまり、これは過去も未来も関係がない「普遍的」なことである可能性が高いといえます。
もし仮に古文や漢文で「テスト勉強がつらい」や「先輩がむかつく」のような場面があれば、それも普遍的な可能性が高く、「1000年たっても変わっていないんだから、これは仕方がない」と考えることができます。
理科や数学の勉強は世界で共通です。国によって方程式の答えが変わることはありません。
しかし、国語は異なります。
日本の国語とアメリカやフランスの国語(にあたる教科)は全く異なります。
国語は「日本」という背景があって初めて成立するのです。
論説文、小説、古典、漢字、韻文など範囲が広くて勉強は大変ですが、さまざまな角度で「日本人」を知ることができると考えると、興味がわきませんか?
まとめ
国語を勉強すると「日本人」について知ることができる!